オープン当初はお客さんゼロで…最初の2ヶ月は毎月50〜60万円の赤字でした…
世界を旅したらインドで病気にかかって…そこから帰ってきて会社を継いだら莫大な借金も引き継いで…
もうなにか映画にでもできそうな波乱万丈の人生…!
そんな紆余曲折を経て、
2024年でなんと創業50周年を迎えた会社は…
株式会社 さくら です!
リフォーム、リノベーション、屋根外壁、水道トラブルから給湯器、新築・不動産、住宅ローンやちょっとしたおうちの悩みごとまで、お家のことならなーんでもOKな頼もしい工務店さんです。
1974年の創業から、今年で50周年を迎えたさくらさん。
その月日の間には…本当に波乱万丈な様々な出来事があったのだとか…!
今回はそんな波乱万丈な人生を、創業者の吉村会長夫妻と、息子さんの吉村社長に語っていただきました。
一体どんなお話が飛び出してくるのでしょうか…
さっそくお話を伺っていきたいと思います!
お客さんゼロからのスタート
― さくらさんは今年で50周年、オープンしたのが1974年で、交野の藤が尾にあったショッパーズという商店街で最初にお店を始められたんですね。
当時は市場形式の商店街で、ひとつの建物の中に56店舗のテナントが入っていたんです。
そこで最初に電気屋としてスタートしたときが6坪でした。
事務所スペースは半畳でしたね(笑)
で、そこに木箱を作ってその上で寝てたのが社長です。
― 社長はそこで寝かされていたんですね!(笑)
寝てないときは乳母車に乗せて店番させてました(笑)
当時はまわりに大きなスーパーとかはまだ無かったから、ショッパーズが開店したときはすごい盛況でしたね。
でも我々電気屋のような店は、お客さんになっていただけないと物が売れないんです。
だからスタート時は本当にお客さんゼロでしたから。
最初の2ヶ月ぐらいは毎月50〜60万円の赤字でしたね。
― そうやったんですか…いきなり苦労されたんですね。
今は家電も買い替えの時代になりましたけど、当時はすべて修理でした。
とにかくコタツ、トースター、扇風機にしても全部修理ですわ。
オープンしたときはお客さんゼロでしたから、1件のお客さんのありがたみというのは今でも覚えていますね。
― 家電は買い替えじゃなくて修理が当たり前の時代やったんですね。
では当時は販売より修理のほうが多かったんですか?
修理から買い替えへ促すような感じですね。
これはどうしても修理できないから買い替えてくださいと。
ところが自分のところで修理できないとお断りして、他所で直ったら店の信用は無くなってしまいますわね。
だから修理でお預かりして、『これはどこへ持って行っても修理は不可やな』という分だけに『修理は難しいです』とお伝えしてました。
― すごいですね。そこまで徹底されていたんですね。
本当に色んなことがありました。
石油ストーブの修理にしても、お客さんは寒いから待っておられるでしょ?
でも部品とか取り寄せないといけないから、お客さんからは『まだか!まだか!』と言われたり…
営業が終わってから外にストーブを並べて修理してる姿はよく覚えてますね。
― 冬に外で修理ですか!?
あれは寒かったですね(笑)
でも修理だけじゃなくて家電も売らないといけないので、1日大きな商品を1つ売るという目標を自分で決めてたんですよ。
朝の内にお客さんのところに行って話をもらったら、また資料持ってきますね〜と帰って、夕方ぐらいにまた行って返事もらえるまで居座ったり…
もう最後には『吉村くん、もう買うたるから帰れ!』って言われてましたね(苦笑)
― 買ってもらえるまで粘ったんですか…!!
そんな時代やったんですよ。
でも自分にはもうこれしかないと思っていたので必死でした。
以前取材させていただいたMさまも創業当時からのお客さまです。
当時は朝から晩まで、ずっとこのあたりの地域を営業でまわってました。
多いときは1日に500軒ほどまわってたんですよ。
もうどこをまわったかわからんくなって、『兄ちゃんさっきも来たやんか』って言われたこともあります(笑)
― また同じお家に行っちゃったりとかもあったんですね(笑)
町の電気屋から、お家の困りごとを解決するお店へ
そうこうしているウチに、クーラーを付けに行ったお家で『壁を張り替えてくれへん?』とか、トイレのウォシュレットを付けに行ったら『便器ごと交換してほしいな』とか言われるようになって。
それでリフォーム業というのは絶対しないとアカンなと思ったんです。
― 色んなお家をまわってお話を聞いてるウチに『お家の困りごと』を解決しないとという思いになったんですね。
本格的にリフォームを始められたのが年表でいうと1995年あたりですか?
そうですね。
そのときは社員2人やったんですけど、そのときに来てくれたのが元電気屋出身の坂東くんやったんです。
― あ!記事にも出てもらってる坂東さんですね!
1週間ほど一緒に仕事して、坂東くんはちょっとした修理や営業みたいなこともできるなと思って、『坂ちゃん、もう電気は全部せえ』と言って、ぼくはリフォームに専念するようになったんです。
でもときには職人さんがこれは無理っていうような場面もありましたね。
お客さんの押入れに収納ケースを作って、そこにクロスを貼るって言ったんですけど、職人さんはそんな手間かけて貼れへんって言われたからぼくが貼りに行きました(笑)
― えーー!会長自ら!?
昔からそういう仕事には興味があって、実家の自分の部屋の壁にクロスを貼ったりしてたんですよ。
ぼくの持論は『やればなんでもできる』なので。
それで失敗したら大きな損害になりますけど、それは全部授業料やと思ってます。
店を開けた頃は授業料が大きかったけどね(笑)
― でもそれがあったからこその今があるわけですよね。
当時だと電気屋さんでリフォームをやってるようなお店はまだ珍しかったんですか?
30年前ぐらいから電気屋でもリフォームやっていかなアカンよねというような風潮はありましたね。
当時はリフォームをしても電気関係はけっこう疎かな場合が多かったんですよ。
壁はキレイにはするけど、電気はそのままみたいな。
昔は電気の配線を壁に沿わせて張り付けていたんですけど、それは全部壁の中に入れるようにしていました。
埋め込みの配線工事というものを当時からしていましたね。
― 今では当たり前になっているリフォームのカタチの先駆けやったんですね。
社長を引き継いだら、莫大な借金も引き継ぐことに…
― 吉村社長はどのタイミングで跡を継がれたんですか?
あるとき通常の仕事以外で、3〜4,000万円の電気工事の仕事が入ってきたんですよ。
そのときに社長に『人手が足りなくて日曜でもバタバタしてるのにどうすんの?』って言われて。
ぼくもちょうど次の仕事どうしよかな〜って思ってた時期やったんですよ。
なので『手助けでちょっと入るわ』って言って。
― あ、では会長から継いでくれって言われたワケではなく、社長から手伝うわという感じやったんですね。
これまで生きてきて『継いでくれ』とは1回も言われたことないですね(笑)
当時は大学出て東京行ったりしてたからね。
で、そのあとはバックパッカーで世界を周ったりね。
― そうですよね。
過去にひらつーで取材させていただいた時にお話を伺いまして。
単身で世界各地を周っておられたんですよね?
ちょうど前の会社を辞める節目に、自分のやりたいことをやりたいなと思って浮かんだのが世界を周ることやったんですね。
貯金の200万円のうち100万円を親に預けて、残りの100万円を持って行ってきました。
― すごいですね…でもそれって親御さんからしたら心配じゃなかったんですか?
心配でしたね…
電話かかってきたらロクなことがないですからね。
『もう帰っといで』って言ってたけど最後まで行きましたね。
そのころはまだ携帯電話がなかったから。
緊急事態以外は電話もかけられなかったですね。
なので電話したのはインドで腸チフスで入院したときですね(苦笑)
― すごい経験をされてますね…!
会社はそのころ、株や不動産に手を出して、バブルが弾けてドスンと大きな借金を抱えてました…
もうそのときに自分には人生コツコツしかないなと思いました。
お店が潰れることに抵抗はなかったんですけど、もし潰れて自分自身が守ってきたものがなくなった時、自分の心がもう立ち直れへんやろうなと思ったんです。
ならもう行くところまで行くしかないという感じでしたね。
― ではそんな会社が大変な時期に吉村社長が戻ってこられたんですね。
2008年にこの場所(星田)に来られて、会社もさくら電気とさくらリフォームの2つに分けて、リフォームもガッツリやっていこうとなったんですか?
そうですね。ぼくが継いだ時に莫大な負債もドカッと来たので…(苦笑)
なんとか会社を残そうと思って、収益とニーズのあったリフォームを強化することにして専門会社にしました。
社長も世界周ってるときはそんな借金のこととか何も知らなかったんでね。
帰ってきたら『え…!?借金!?』ですよ(笑)
そこからはまずお金も物も、色んな整理から始めました。
借金も順調に減って、4年で半分ぐらいになりました。
でもそのあたりから、自分は何のために仕事してるんやろうと思うようになってきて。
この先、どうしようかな…と自分や会社の将来を考えることが増えてきました。
― そこから社長はどういう風に動いていかれたんですか?
最初の4年ぐらいは維持することが目的だったんですけど、それは順調に進みましたね。
不動産も始めて、収益も上がって人も増えてきました。
でも、電気・リフォーム・不動産それぞれの連携がなかなか上手くいかなかったんですよ。
自分の部署のことでみんな手一杯というか。
― それぞれが独立して動いてる感じだったんですね。
本来は一つのさくらという会社で一致団結したかったんですけど、なかなかまとまらなくて。
多分何かが足りないんやろなと思いはじめたときに、『理念』というものを作り始めたんです。
自分もずっと会長の背中を見てきた中で、お客様と家族よりも近いような関係でお付き合いをしているんやなとすごく感じました。
そこで出てきたのが『家族の絆を深める企業』という理念です。
そこから徐々にみんな同じ方向を向き始めてくれましたね。
― 『家族』というのが理念の中心となっているキーワードなんですね。
そうですね。
ぼくはこの2人の元に生まれてすごく幸せやったんですよ。
でも逆にその恵まれすぎているのが嫌で、もっと苦労したいと思ってたというか…。
そんなんもあって世界に飛び出したんですけど(笑)
んで帰ってきたら借金あるしね(笑)
― 一気に苦労が来ましたね…(笑)
でも理念を考えたときに、自分が感じた家族の温かさのようなものを世の中に広めていけたらなと思いましたね。
家族という一番最小の共同体を大事にするところから社会は変わっていくのかなって思えたのが一番大きかったです。
50年、ありがとうの気持ちですね
― これまで波乱万丈な人生を経て、今回の50周年という大きな節目を迎えられたんですね。
ここから先10年、20年、100周年を目指すにあたって、社長のこうしていきたいっていうようなビジョンはありますか?
50年後…98歳か(笑)
会長は何歳?
124歳や(笑)
今度9月の25日に50周年の式典を予定してまして、協力会社さんからもおめでとうございますと言葉を頂いて、改めて50年なんだなというのをすごく感じます。
この先のビジョンとしては持ってるものがあって、多分ぼくの原点じゃないかな?
新入社員で最初に入った会社で、『家族がハッピーになるような街をつくりたい』って言ったのを今でも覚えてます。
関東のほうには一社で街全体を作ってて、鉄道も敷いて、住宅やモールやオフィスも管理会社も保育園や介護施設も全部運営している会社さんがあるんですよ。
多分自分のイメージはそんな感じに近いのかなと思ってます。
この交野市をさくら市という街に変えたいというか。
何かあったら『さくらさんお願いね』と頼ってもらえるような会社にしたいですね。
― もう街をさくらさんの街にしたいと考えておられるんですね…!
もちろん会社として中身が伴ってないといけないので、働いてる社員やスタッフにもこの会社で働いて成長した、楽しいなと働きがいを感じられるような会社にしたいですね。
そして胸を張って子どもに自慢できる、背中を見せられるような大人が集まる会社にしたいと思ってます。
それからお客さんからも、10年経ってから『さくらさんあの時はありがとう』と言ってもらえるような会社にしたいですね。
― 改めて本当によかったなと思ってもらえるような会社ですか?
でもそのためにはぼくたちは10年後のことを考えないといけないので。
目の前の商品を売るだけじゃなくて、このお客さんが10年後にどうなるのかまで想像力を働かせることが大事かなと思います。
社長には維持だけはせんといてくれとお願いしました。
潰すか大きくするかどちらかにしてくれと。
精一杯やってくれたらもうそれだけで十分満足やと。
いろんな経験をさせてもらってよかったなと、そう思える50年でしたね。
もう本当に『ありがとう』の気持ちですね。
お客さんによくがんばったねと言ってもらえるのが嬉しいですね。
もうお客さんところへ、仕事の話をせずに遊びに行けたら一番ええなと思いながらまだ仕事してますね…(笑)
― 生涯現役ですか?
それはちょっとしんどいかな(笑)
吉村社長、会長ご夫妻、貴重なお話をありがとうございました!
いかがでしたか?
企業の50年後の存続率は0.7%とも言われる中で、50周年を迎えたさくらさん。
今回、社長と会長ご夫妻のお話を聞いて、お客さんや地域の方々に寄り添って困りごとを解決してきたさくらさんだからこそ、迎えることが出来た50周年なんだなと感じました。
これからも60年、70年…100年と続いていくようすを見守っていきたいですね!
そして、お家のことで悩んでいる、気になっていることがあるという方は、ぜひさくらさんに相談してみてくださいねー!
きっと本当の家族のように親身になって解決してくれますよ!
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