2022年10月28日に現役引退を発表した田中英雄さん。
サッカー選手生活18年のうち最後の4年間をFCティアモ枚方で過ごしました。ティアモで過ごした最後の4年間はティアモの歴史の中でもコロナ禍でありながらも地域リーグからJFLへ駆け上がった激動の4年。
「こんなに長くティアモにいるなんて思わなかった」と振り返る田中さんが、キャプテンとして、元Jリーガーとして、環境も何もかも違う中でどのように走り抜けたのか、年の瀬も迫った時期にお話を伺いました。
取材日:2022年12月27日 zoomにて
取材担当:いまちゃん
「最後のピースで必要だ」と言われて
ーまずは現役引退、お疲れ様でした。
今日は、現役生活最後を過ごされたティアモの4年間を振り返っていただけたらと思っています。2019年に加入されて、2020年に小川さんが監督となり、2021年にJFLの舞台に上がって今年が2022年ですね。もう、加入したのは遠い昔ですか?
そうですね。
こんなに長く僕がティアモにいると思わなかったですし、今思うとあっという間でした。
ーそうですか。サッカー人生の中では4年は短いですよね。
プロ生活のうち12年間ヴィッセル神戸にいて、次に長いのがティアモなのであっという間でしたけど、内容の濃い、時間の濃い4年間だったと思います。
ーティアモというチームもこの4年間は劇的に変わった4年間だったと思います。
そうですね。歯車が回り始めた段階で僕らがきて、それをしっかり回せたのかなと自分では思っています。後はもうJリーグ目指して、どんどん進んでいくだけだと思うんで。
ーでは、時計の針をだいぶ戻していただいて、ティアモに入る前の印象などは覚えてらっしゃいますか。
僕が呼ばれた時には、野沢さん(野沢拓也)も二川さん(二川孝広 現ティアモ監督)もキーパーの武田(武田博行 現ティアモGKコーチ)も加入が決まっていて、「最後のピースで必要だ」と言われて、ティアモに行こうと思いました。
その当時、(J1から数えたら5部相当の地域リーグのレベルにJ1の第一線で活躍していた)野沢さん、二川さんがいるというのは、マンガみたいな話だと思いました。
それを凄く面白いと思い、やり甲斐をすごく感じたのを、今でも覚えていますね。
ティアモの印象といえば、今でこそ、地域リーグのカテゴリーに元プロの人が加入することも多くなってきたと思うのですが、その当時は「ティアモ何やってんだよ」という感じのことだったので、それはすごく覚えていますね。
声をかけてもらう前からティアモの名前は聞いてはいたんですけど、まさか漫画みたいなことを本気でやろうとしているとはと、お話しいただいた時に凄いイメージが残っていますね。
ー毎回ティアモの選手にインタビューをする時に聞くのですが、「枚方」は読めましたか?
「まいかた」ですよね。
関西が長かったので、ひらパーの影響というかCMとか、神戸にいる時とかも、「ひらパーってなんだ」ってことから、「枚方にある…あ!これ枚方(ひらかた)と読むんだ」と、自分の中でインプットされていたので。
知らない人が「まいかた」と読む気持ちも分かるなとも思いますね。
意識が変われば行動が変わる、行動が変わると結果が変わる
ー田中さんが在籍した4年間でチームがすごく変化したことはなんですか?
今思うのは、まず若手の子たちがすごく成長したなと実感しています。
それも僕らの役割の1つだったと思うので。
「意識が変われば行動が変わる、行動が変わると結果が今度変わってくる」
サッカー+αの部分も成長させるというタスクは僕らJからきた選手にはあったと思います。
そこがほんとに上手くいったと感じています。
Jの選手がきても、なかなか変わらないのですが、ほんとティアモに関してはいい変化がもたらされたなと。若手の成長という部分は凄い感じますし、さっきも言いましたけど、意識が変われば行動が変わって、行動が変われば結果が変わるという部分で、行動が変わってくると自ずとチームの体制とかサポートの役割とかも変えなきゃいけない、そういう意味でチーム自体もしっかりもう1段階、2段階上の在り方、存在に変わっていったと思います。
ープロの方が入って来られて、ベテランということで年の差もあって、浮いてしまうチームもあると思うのですが、ティアモはすごく理想的に上手くいった気がします。そこはどう思われますか。
僕も思い返してみれば、同じことを思います。
最初に言った「4年間だったけど、内容の濃い4年間だった」と思えるのは、やっぱり若手の成長を凄く感じたので。
ベテランが入ってきて上手くいく保証もないですし、そういう意味では正解か不正解かわからないのですけど、僕らが入って2年でJFLに上がれて、なおかつヒマン(森本ヒマン)がJクラブに行きましたけど、ティアモからJのカテゴリーに今どんどん行くようになりました。
そうやって若手が成長してくれているってのは、凄くよかったのかなと今は思いますね。
ーティアモに入った時に一番びっくりしたことは何ですか?
いやぁ、もう全てにびっくりしましたよ(笑)
でも、まぁサッカーコートの大きさが変わるわけでもないですし、ボールが丸から四角とかそんな形に変わるわけではないですし。そこが変わらなければ、プレーする自分は一緒かなと常々思っていたので。
ほんと環境は変わりはしましたけど、ポジティブにというか、笑ってとらえられていたので。それこそ、野沢さん、二川さんとも笑いながら、いろんな環境に対応できていたのかなと。笑いに変えられたというと変ですけど。
公式戦がいきなり大学のグラウンドに行って、空の下で着替えて試合しましょうとか。
ーそんな環境でしたね。
そうは言いつつも、スタッフが察してテントを自前で作ってくれました。
スタッフはあの中でも特別な雰囲気を作り出してくれたと思いますし、色々工夫してくれていましたね。
タイムスケジュールも集合時間から全部Jと同じようにしたりとか。そういう細かいところから、プロ仕様というか、スタッフが工夫してくれていました。ドリンクとかも含め、その環境でできる最善のことをしてくれましたね。
環境が悪い中でもプロと同じでやれる部分は、全てチームがサポートしてやってくれていたのもありました。そういうところから、元々いた若手の子達、新しくきた若手の子達が変化を感じたんじゃないかなと思いますけどね。
今まで、普通に集合してやっていたのが、何分前に集合して、あの雰囲気の中でも特別な雰囲気の中でやれたってのは。
オン・ザ・ピッチでもオフ・ザ・ピッチでも感じてもらえていたのではないかと思います。
鹿児島での優勝と昇格を決めた淡路島・千葉
ー4年間いろんな試合があったと思いますが、今振り返ってみてどの試合が記憶に残っていますか。
毎試合、凄く思い出深い、内容の濃い試合でしたけど、特に印象に残っているのは1年目の鹿児島の全国社会人サッカー選手権大会(以下:全社)で優勝した大会と2年目の地域CL(全国地域サッカーチャンピオンズリーグのこと 以下:地域CL)、予選から決勝ラウンドの6試合、その2つの大会は凄く印象に残っています。
ーまずは、2019年の全社のお話から、お聞かせください。確か鹿児島の鹿屋体育大学出身でしたよね。懐かしいなという思いがありましたか。
ほんと、「鹿児島でやれんのか」という嬉しさがありましたね。
ーご卒業されてからだいぶ経っていますし、大学の頃に使っていたグラウンドで試合があったわけではなかったのですよね。
いやいや、大学の時によく試合をやったり、合宿したりしたグラウンドで試合でしたので、勝手にホーム感を感じながらやっていました。
それに、全社は国体のプレ大会なので、スタッフもボランティアの地元の方達がドリンクサービスとか色々やってくれているんです。その方達が、ドリンクをもらいにいく時も笑顔で対応してくれたり、毎回ティアモが勝つごとにティアモのファンになっていく感じが凄くして、それが嬉しかったですね。
やっているサッカーのスタイルもみてる人が楽しんでもらえるようなサッカーだったと思うので余計に嬉しかったですね。
ー全社といえば、5日間連続で試合ですよね。
1年目は、リーグが2位で地域CLのチケットをゲットできていませんでした。ベスト8まで全社で残ることが出来れば、チケットを獲得できるという状況だったんですよ。
1回戦から優勝するまで5試合あって、ベスト8まで3試合勝って地域CLのチケットをゲットできたので準決・決勝は、温存でベテランはでなくていいとなったんです。ただ、「ベンチには居てくれ、心もとないから」と当時の監督の辻本さんに言われて。
それで、準決・決勝と若手で戦ったんですけど、ほんとさっきの成長じゃないですけど、ベンチで見ていても自信持ってプレーしていて、安心して見てられるプレーをみんなやっていました。プレーする姿勢だったり、もちろんプレーの内容も質も含めて見ててほんと頼もしかったというか、それで準決・決勝もしっかり勝てて、優勝も出来たので。若手だけで勝ったのが、凄いです。
自分らでしっかりベスト8まで勝ち進めて、後2試合を若手で勝ったといういろんな意味で充実した大会でしたね。
ーもう1つ、昇格を決めた2020年の地域CLの大会ですね。この予選は淡路島で、決勝が千葉でした。田中さんにとってあの大会は、どうでしたか。
前年度地域CLを経験して、予選で決勝に上がれなかった経験があったので、自分的にはこれがラストチャンスだなと。これで上がれなかったら、もうおそらく自分もモチベーションとかそういう部分でしんどくなるだろうし、自分自身もサッカーやめようかな、これが最後かなと思っていました。それは自分だけで考えていましたね。
予選からのあの6試合は、今でもよくあんなプレーできたなと。自分でもびっくりするぐらい予選から6試合全部フル出場したので、気持ちが身体を凌駕していたんだなと思います。
ーあの時、チームのメンバーはどんな感じでしたか。
凄くいい状態でいました。
モチベーションというか、気持ちが高すぎず、低すぎず、緊張しすぎてもない、緊張しなさすぎてもない、僕よくゾーンっていうんですけど、凄くいい状態にチーム全体があったのかなと、雰囲気も含めて、それは思いますね。
ー緊張するものなんですか。
僕はそんなことないんですが、若手の緊張とかそういうのは客観的に感じてたりしていたので、チームの試合前とかロッカーの雰囲気とかで緊張しすぎてもダメだし、しなさすぎてもダメだと思うんですよ。
それが、なんというか空気が張った状態というか、地域CLに関してはチームとしても個人としても、その状態を取れていたなとは今思い返すと思いますね。
あんまり緊張が無さすぎて、緩みすぎるとダメだと思いますし。
ー前年2019年の地域CL予選の秋田で敗退した時とは、雰囲気が違ったのですか。
秋田の時も、かなりいいチーム状態ではあったのですが、その他の実力云々じゃないいろんな部分が自分たちに味方してくれなかった。
対戦相手の順番だったり、僕たちのサッカーをやるピッチでは難しいような結構粘土状の土で雨が降ったりといった、いろんな部分での影響がチームに味方してくれなかったというのもあったので。
でも、「地域CL」は、面白いです。
実力だけじゃない部分も凄く必要になってくるんです。そういう意味で1年目で地域CLの魅力にどっぷり浸かりました。そういう経験を踏まえて2020年の淡路島と千葉での地域CLは、いろんな部分の準備といろんな部分がいい感じで1つになったのがあったんで。
ーこの昇格を決めた2020年は、小川さん(小川佳純 現J1サガン鳥栖コーチ)が監督に来られた年でもあるんですが、小川さんが来られてチームの雰囲気が変わりましたか。
そうですね、ズミもしっかり実力を持った選手ですし、僕らより年齢でいうと下ではありますけど、その中でも監督として僕ら年上の選手がいる中でやりにくいってもあったと思いますが、その中でもしっかりとズミ自身頑張ってくれていたと思います。
Jを長い間経験してきた人しかわからないような話もズミとは出来たので、それは凄く大きかったですね。ましてや、引退してすぐにこの監督を引き受けてくれた訳ですし、その中でしっかりコミュニケーションは取れたのかなと思います。
ー小川さん自身もプロでやってこられて、サッカーの経験値はすごくあると思うのですが、地域リーグからJFLにあがる地域CLに関しては全く初めてのことが多かった思うのです。その辺のところ、田中さんはフォローされたのですか。
結構話しましたし、言い合いまではいかないですけど、コミュニケーションをいっぱい取りましたね。
おっしゃった通りズミは地域CLを経験していない。
自分たちが1年目で経験したことを、とにかくズミに伝えて、じゃあ今いるメンバーで上がろうとした時にもっとこういうサッカーとか、ズミのやりたいサッカーとかの部分でじゃあこうしようと話しながら作ったかなと思います。
なので、最終的に地域CLで一番いい状態に持って行けたと。
普通に歩けるようになるのだろうか
ー翌年JFLに上がりました。上がりましたが、5月に怪我をして、なかなか戻ってこれなかったですね。
長かったですね。
ーサッカー人生の中で、こんな大怪我をしたのは、初めてのことですか。
それこそ神戸時代に、同じ前十字靭帯をやって7ヶ月ぐらいは復帰までにかかりました。けど、その時はすんなりというかほぼパーフェクトに復帰出来たので。
その経験もあって今回怪我した時も自分で「必ずすぐ復帰してみせる」とスイッチを入れ替えられました。最初怪我した時は。
手術は無事に成功したんですけど、怪我以外の手術での感染症というのにかかっちゃったので、そっからは結構大変でしたね。
今はもう笑って話せますけど、当時はほんともう、普通に歩けたり走ったり出来なくなるんだろうなと。サッカーするとかボールを蹴る以前の問題だなっていう感覚だったので。
その時はとりあえずサッカーに復帰するというよりは、「普通に歩けるようにして欲しい」とドクターと2人で話しました。今思うと辛かったですけど、成長出来たと思います。当時はほんとにしんどかったですね。
ーそれは、しんどかったですね。
感染症を抑える手術の写真も撮ってはいたんですけど、絶対誰にも見せられないなと思っていたんです。でも、今年2ヶ月前ぐらいのSNSでも上げましたし、なんか心の変化じゃないですけど、今の自分があるからできるのかなと思います。まぁここまで復帰できたというのも1つの理由であるかと思うんですけど。
去年は、その写真すら見せられなかった。
ですが、なんか心の変化というか、「あ!もう写真も見せられるし話せる」と今年、ふとそうなりました。
ーもしかしたら、ピッチには戻って来られずに引退されるかもしれないと思っていたのですが、怪我から復帰して始めてピッチに立った時、ファンの方は泣きそうになったと思います。ご自身はどうでしたか。
僕が一番泣きそうでした。
なんだろうな、必ず復帰する。
普通に歩けないな、復帰とか考えられない時期から徐々に感染症も収まり、徐々に徐々にいい方向に前進していく中で、復帰をしっかり考えられたというのもありました。
クラブオーナーのイバさん(新井場徹)に言われたのですけど、「復帰を目指す姿勢を若手や教えている高校生とかにみせることもお前の役割だよ」と。
自分にとっては、自分1人の問題じゃないというか、なんとかそういう姿勢をみて少しでもサッカーを通して成長する姿を見せられたらいいなという想いもあったので、必ず復帰を目指そうとは思っていましたね。
ー怪我から復活して立ったピッチは、ホームのたまゆら陸上競技場でしたが、たまゆら陸上競技場はどんな場所ですか。
よくいうと凄くアットホームで。
一番印象に残ってるのは、と聞かれたら、僕らが入った1年目の開幕戦のあの雰囲気は印象に残っていますね。当時はチケット代は取れなかったので。(2019年5月19日 対レイジェンド滋賀戦 観客数1,422人)
ー今年の10月に鈴鹿ポイントゲッターズの三浦知良選手が来た時が1,521人でしたがそれと一緒ぐらいですかね。
一緒ぐらいですかね。かずさん(三浦知良)が枚方に来たのも嬉しかったです。
ー三浦知良選手が本当に枚方に来られましたね。世界でも有名な三浦知良選手がJFLのカテゴリーで活躍することになったのも、枚方での試合でJFL初ゴールを決めてカズダンスを披露してくれたのも、ほんとにびっくりでした。そして、田中さんの復帰第1戦目の試合が、ご自身がプロに入った時に縁のある三浦選手・三浦監督のいる鈴鹿戦だったというのも。世の中何があるか分からないなと思いましたね。
ほんと、そうですね。
ティアモ、二川監督、自身のこれからのこと
ーさて、これからのことを聞きたいのですが、ご自身のこと、これからのティアモのこと、二川監督のことをお願いします。
今後のティアモに関しては、当初僕がここにきた目標であるJリーグというのを目指していくと思いますし、僕は必ずティアモはJに上がるんだろうなと凄く思います。
そのために選手たちは結果を出し続けなきゃだめです。
あとチームとしては、スタジアムの問題など難しい問題があるのは理解しているのですけど、それも先ほど言われました「何があるかわかんない」という意味でも、スタジアムとかもできて、プロに上がって欲しいですし、上がってくれると思っています。
二川監督に関しては、今年特にいろんな話を2人でしましたけど、実際監督をやるということが決まってからの顔付きが、選手の顔付きというより、指導者というか監督の顔付きに変わっていました。ちょっと話したらいろんな準備もしているみたいですし、ふたさんの監督の姿が全然湧かないですけど、想像以上な監督になってくれるのではないかなと。
俺が言うのもなんですけど、凄く期待しています。
自分自身は、今後これをやるというのは決まっていないのですけど、今言えるのは、今まで経験してきたものを全て自分の第2章に繋げられるように、自分が100%出せるようにと思っていますね。
ー長い時間ありがとうございました。これからのご活躍を祈っています。
「4年間だったけど、内容の濃い4年間だった」とインタビュー中に話してくれた田中さん。
一緒に振り返っていくうちに、本当に濃い4年間だったと改めて思った方も多いのではないでしょうか。選手生活、本当にお疲れ様でした。これからの「田中英雄の第2章」も注目ですね。
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